維新前のフルベッキ写真

.「維新前のフルベッキ写真」の中央部に立つ西郷隆盛と 西郷従道は本人達である根拠。

(1)1894年のジャパン・エヴァンジェリスト第2巻第5号に掲載のM・N・ワイコフのフルベッキ小伝の中に『維新前にフルベッキを訪ねた者の中に西郷兄弟がいた』との記述がある。

(2)博文館の雑誌『太陽』((第1巻7号・明治28年)=1895/7/5)の戸川残花「フルベッキ博士とヘボン先生」の写真のキャプションに「生學洋崎長の」とある。

(3)明治35年4月22日(1902/4/22)『東洋日の出新聞』第89号に、長崎の写真師上野彦馬の口述により掲載された記事『維新前西郷隆盛が上野氏方へ来て写真を写した』がある。

(4)上記(1)(3)の訪問時期と(2)(3)の写真撮影時期は「維新前」で一致する。

(5)西郷隆盛の顔は、右後の弟の西郷従道の顔と酷似しており、西郷従道の顔は『明治2年長崎にて撮影の山懸有朋公他五氏肖像(公爵山懸有道氏蔵)』の真ん中の人物と同じ。

(6)西郷従道の長女(岩倉桜子女史)が、「維新前のフルベッキ写真」西郷隆盛右後の西郷従道は本人だと証言した(吉川弘文館 日本歴史第332号1976年1月号110ページ)とある。

(7)西郷隆盛の顔は、ひ孫の西郷隆夫氏のお顔と酷似している。頬骨、目、眉、鼻、口や顔全体のほかに、背が高いのもそっくり!

西郷隆夫氏はYouYubeにも出演されています。



(画像をお断りなく拝借したことをお詫びします)

(8)西郷隆盛は右手に長崎の山の中で副島種臣と一緒に作ったといわれる竹のムチを持っている。

.「維新前のフルベッキ写真」の中央部に立つ西郷隆盛の後方の大久保利通は本人である根拠。

(1)1900年W・E・グリフィスがアメリカで出版の「Verbeck of Japan」(日本のフルベッキ:2003年村瀬寿代氏翻訳)の中に、フルベッキがアメリカに送った「フルベッキ写真」の中に『皇国の首相になった人』がいるとの記述があるが、これに該当する人物は西郷隆盛の左後ろに立っている大久保利通だけである。

  ◆グリフィスは、この本の中で述べている『皇国の首相になった人』は『大隈伯』のことだとは言っていない。

  ◆グリフィスは、写真中の似た人物を『大隈伯』だと勘違いしている。

  ◆2013/4/24の新証拠「フルベッキと佐賀藩家老の伊東次兵衛らが写っている写真」発表により、「維新前のフルベッキ写真」に大隈伯が写っていないことは証明された

(2)日本史籍協会「大久保利通日記一」の491ページに、『明治元年11月11日(1868/12/24)西郷信吾子着』との記述がある。大久保利通と西郷信吾(=従道)は、このあと西郷隆盛や南朝系睦人天皇と会うために一緒に長崎に向かい、上野スタジオで西郷隆盛の後方に並んで写真に写った。

(3)大久保利通の容貌は、国書刊行会「大久保家秘蔵写真」14ページの「明治元年頃御写真」と酷似している。

(4)東京から薩摩へ帰藩途中の吉井幸輔(=友實)(後列右から4人目)も写っている。吉井は後年、宮中で南朝系睦人(むつひと)天皇に仕えた。

.「維新前のフルベッキ写真」の撮影日は明治元年11月16日~18日(1868/12/29~31)である根拠。

(1)「維新前のフルベッキ写真」に写っている岩倉兄弟(具定・具経)は明治元年10月27日(1868/12/10)に長崎の致遠館に入学した。

(2)明治元年11月11日(1868/12/24)時点では大久保利通と西郷従道は東京におり、その後一緒に長崎に向かったので、上野スタジオでの撮影日は明治元年11月16日~18日(1868/12/29~31)と思われる。

.「維新前のフルベッキ写真」の中央部にいる南朝系睦人(むつひと)天皇の右前の副島種臣は本人である根拠。

(1)佐々木哲太郎編「蒼海遺稿」に記載の副島種臣の写真に酷似している。

(2)副島種臣は致遠館の学監として写真中央部で写っている。

.「維新前のフルベッキ写真」の中央部にいる南朝系睦人(むつひと)天皇の左前の長州藩の廣澤眞臣は本人である根拠。

(1)国立国会図書館の廣澤眞臣の写真と酷似している。

(2)日本史籍協会「廣澤眞臣日記」の143ページでは、明治元年11月7日~25日(1868/12/20~1869/1/7)までの動静を多忙としているので、この時期は長崎に出かけたことを隠蔽したようである。

(3)廣澤眞臣は南朝系睦人天皇に対する長州藩の世話役として、「維新前のフルベッキ写真」の写真中央部で南朝系睦人天皇の前に座り写っている。

突鰐トツガクの睦人(むつひと)天皇の病状が悪化した(=殺されかけた)可能性が有る根拠。

(1)宮内省編集「明治天皇紀 第一」の899ページには『明治元年11月19日(1869/1/1)典薬寮医師豊後守福井登伺候拝診し御薬を調進す』との注目すべき重要記述がある。

(2)福井登は、大阪城で病に倒れた徳川家茂の治療のために、孝明天皇が派遣した二人の医師のうちのひとりである。

(3)医師福井登から突鰐睦人天皇の病状を聞いていた三条実美、岩倉具視、大久保利通等は突鰐睦人天皇の身代わりとして、長崎にいた南朝系睦人天皇を急ぎ東京または京都へ連れ帰ることにした。

.長崎にいた南朝系睦人天皇を急ぎ東京または京都へ連れ帰ったのは、大久保利通、伊藤博文、副島種臣、廣澤眞臣、大隈重信のいずれかである根拠。

(1)大久保利通は「維新前のフルベッキ写真」撮影後、すぐ東京に戻った。

(2)伊藤博文は1868/7/12から1869/5/21まで兵庫県知事を務めたが、1868末から1869初にかけての動静が不明である。

(3)副島種臣は長崎、京都、東京の間を往来しやすい状況にあった。

(4)廣澤眞臣は「維新前のフルベッキ写真」撮影後、京都に戻った。

(5)大隈重信は1868/10/18(明治元年9月3日)に長崎に到着し、1869/1/30(明治元年12月18日)までには京都に戻っている。

突鰐トツガクの睦人(むつひと)天皇と入れ替わり、全く別顔の人物が南朝系睦人天皇になったと思われる根拠。

(1)新人物往来社「英国外交官の見た幕末維新」の128ページに、1868/3/26ミットフォードが謁見で見たMikadoは、『輝く目と明るい顔色をした背の高い若者であった』との記述がある。これは南朝系睦人親王である。

(2)1960/9/25発行のアーネスト・サトウの岩波文庫「一外交官の見た明治維新(下)」の199ページには、1868/5/22(明治元年閏4月1日)のイギリス公使の信任状奉呈の際に、アーネスト・サトウが近くで見たMikadoの顔は、特徴として『口の格好はよくなく、医者のいう突鰐プラグナサスであった』との記述がある。これは突鰐睦人親王である。

  ◆太平洋戦争前の昭和13(1938)年3月発行の英使サトウ滞日見聞記「維新日本外交秘録」535ページでは(2)の箇所は伏字であり、戦前から外国で公表(1921年出版 A Diplomat in Japanの409ページでprognathousと記述)されていた突鰐の真実を日本国内向けには隠蔽し情報統制していた。

(3)新潮社の徳永洋「横井小楠」の154ページには、明治元年5月中旬(1868年7月上旬)頃の天皇は『顔は長く、顔色は浅黒く、声は大きく背もすらり』との記述がある。⇚これは南朝系睦人親王である。

(4)「維新前のフルベッキ写真」(1868/12/29~31撮影)の南朝系睦人天皇には、『口の格好はよくなく、医者のいう突鰐』は見られない。

(5)新人物往来社「オーストリア外交官の見た明治維新」の132ページに、1871/9/16ヒューブナーが見た睦人天皇の顔立ちは、『鼻は大きくて少しぺしゃんこ』との記述がある。⇚これは突鰐睦人天皇である。

(6)1872/1/2横須賀造船所にてスティルフリードが撮影(盗撮とは限らない)した行幸写真中央の天皇は、『口の格好はよくなく、医者のいう突鰐』のように見える。⇚これは突鰐睦人天皇である。

  ◆宮内省編集「明治天皇紀 第二」の599ページに記載の『明治天皇横須賀行幸寫眞』は現存し、中央の白装束の人物は「上」との説明書あり。(宮内庁宮内公文書館 書陵部所蔵資料 2021初公開済み)https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Kobunsho 「横須賀行幸」で検索できる。

    (これが突鰐睦人天皇である)

(7)渡辺出版「英傑たちの肖像写真」の117ページに記載の、1872/5/18または19に内田九一が撮影した「明治天皇像」の天皇には『口の格好はよくなく、医者のいう突鰐』は見られない。これは南朝系睦人天皇である。

(8)「維新前のフルベッキ写真」の南朝系睦人天皇と「明治天皇像」の天皇とは、顔の容貌も酷似しており、両者は同一人物と思われる。これは南朝系睦人天皇である。

(9)図書出版社の岩田礼「天皇暗殺」の49ページには、1872/6/10下関行幸の際に、側近たちが見た天皇・睦人(むつひと)の様子は『「姫君と見まがうばかり」というように、そのからだはきゃしゃであった』との記述がある。⇚これは突鰐睦人天皇である。

(10)朝日新聞社「遠い崖10 アーネスト・サトウ日記抄 大分裂」の298ページに、1872/7/28にウイリスが見た天皇の顔立ちは、『顔付はみにくいほう』との記述がある。⇚これは突鰐睦人天皇である。

  (11)突鰐睦人天皇は、全く別顔の南朝系睦人天皇の影武者とされた可能性もある。

  (12)突鰐睦人天皇と入れ替わり、全く別顔の南朝系睦人天皇が南朝正統の天皇になったと思われる。

.「維新前のフルベッキ写真」の中央に写る南朝系睦人天皇を、フランス人に対し、日本における非常に重要な人物と紹介したと思われる根拠。

(1)渡辺出版「上野彦馬歴史写真集成」38ページの「維新前のフルベッキ写真」台紙にはフランス語で、「役人に囲まれた大君の子息」との書込みがある。南朝系睦人天皇のことをフランス人にそう紹介したのであろう。

(2)1868/12/29写真撮影当時、徳川慶喜は恭順済で、大君ではない。従って、「役人に囲まれた大君の子息」ではなくて、「役人に囲まれた新しい南朝系睦人天皇」が適切である。

(3)突鰐睦人親王の践祚は1867/2/13であり、突鰐睦人天皇の即位は1868/10/12である。

以上